さて、前回の記事に続き、黙示録に出てくる新エルサレムの門が真珠であることについて、考察を進めていきます。
前回の記事では、黙示録は20世紀になってからようやく公開されるようになった禁断の書であったということ、
そして、その黙示録で描かれている未来の予想図は、2020年私たちが生きている地球で現在進行形で起きている出来事であるということ(つまり私たちは黙示録の時代を生きているということ)、
黙示録で記されている艱難辛苦を耐え忍んだ先に生まれてくる新エルサレムとは、未来の地球(木星紀の地球)であるということをお伝えしました。
そして、黙示録では、新エルサレムの入り口である門は真珠からできていると描写されています。
真珠とはどういう宝石なのか?
真珠は、古今東西の伝承を紐解くと、両極を結ぶ石、あるいは対極をつなぐ石であるといえます。境界の石といってもよいでしょう。
たとえば、イスラム文化では真珠は乙女のシンボルである(処女性)一方で、胎児そのもの、つまり妊婦のシンボルでもあると言われています。
中世ヨーロッパでは、神の愛であり、神への愛でもあります。
グノーシス派では、受肉した神の象徴です。
ギリシア・ローマではエロスのシンボルであり、快楽や性愛、性欲や肉欲を象徴するものとされました。
このように、真珠には、処女と妊婦、神の愛と人間から神への愛、純潔と官能といった両極的な性質が割り当てられていることが分かります。
ちなみに、ギリシアでは、真珠はマルガリータと呼ばれていました(そしてその語源はサンスクリット語のマールアカッタでした)。真珠は催淫剤としても使われており、精神病の薬としても処方されていました。つまり、通常の意識と変性意識の切り替える作用があったようです。
真珠の本質を最もよく表現していゲーテの「ファウスト」に出てくるグレートヒェン
こうした真珠の特性を最も良く表現しているのが、ゲーテの「ファウスト」第一部のハイライトであるグレートヒェンの悲劇です。
グレートヒェンは愛称で、元の名前はマルガレーテです。
このマルガレーテは、上述した通り、ギリシア語の真珠を意味するマルガリータから来ています。
メフィストフェレスという悪魔は、ファウストの魂を奪い去るために、神から許可をもらってファウストを誘惑しています。
その時に誘惑の手段として選んだのが、真珠という名前を持つ女性・グレートヒェンでした。
敬虔で素朴な乙女(処女)であったグレートヒェンは、悪魔の計画によってファウストと恋に落ち、肉体関係を持ってしまいます。
そして、その結果子どもを産むのですが、その子どもをグレートヒェンは殺してしまいました。
そして、グレートヒェンは罪に問われて刑罰を受けて死にます。
※ちなみに、ゲーテの生きていた時代は婚前交渉は罪とされていました。実際に婚前交渉と嬰児殺しの罪に問われて亡くなった女性もいたようです。
※※恋多きゲーテは若き時代にグレートヒェンのモデルとなった素朴な女性(牧師の娘)と恋に落ちたらしいですが、その女性とは結局結婚しませんでした。しかしこの女性は、ゲーテとの恋仲をうわさされてしまい、その後生涯結婚することができず未婚を貫いたらしいです。このことがグレートヒェン悲劇のモチーフになっているようです。
こうして、悲劇で終わってしまったファウスト第一部ですが、今度第二部になると、メフィストフェレスの思惑とは違った計画外のことが起きてきます。
それは、単純に性愛を満たすために出会わせたグレートヒェンとファウストの間に本当の愛が芽生えていたということです。
その結果、第二部では、霊界へ上ったグレートヒェンが地上のファウストをずっと守り導くようになります。
罪を犯した(嬰児殺し)グレートヒェンが、天界では天使のような存在となって、ファウストを守り導くという逆説的な状況が起きてきます。
そして最後に出てくる、超有名な例の一節。
永遠に女性的なるもの、我らを引きて昇らしむ。
Das Ewig-Weibliche zieht uns hinan.
ちなみに、このグレートヒェンの愛の放射によって、メフィストフェレスの中にも愛の感情が芽生えるというシーンまで描かれています。つまり、人間が真珠的な体験をすることによって、悪魔すらも救済されるということが暗示されているんですよね。
真珠は感覚器官の代わりとしては(まだ)不完全
真珠は、宝石としては観賞価値が高い美しい存在ではありますが、感覚器官の代わりをするには不完全なものでもあります。
これは、私たちの現在の体の感覚器官として使われている水晶同様の成分である二酸化ケイ素とは対照的です。
真珠はバイオミネラルの一種で、その主成分は炭酸カルシウム(石灰)です。炭酸カルシウムを主成分する方解石(カルサイト)は、その下に文字をおくと二重に映し出してしまいます(複屈折効果)。つまり感覚器官の代わりにはならないのです。
一方、水晶はレンズの代わりにもなるほど物事を正しく映し出すことができます。つまり、感覚器官として既に完成されているということです。
このように、真珠は、まだまだ感覚器官の代わりとしては不完全な存在だといえます。
不完全な真珠が新エルサレムの門になるというのはどういうことなのか?
ですが、黙示録で描かれている新エルサレムの門は、このように両極的で不完全な真珠なのです。
真珠的な体験というのは、グレートヒェンの話にも象徴されているように、きわめて人間的な弱さとそれに起因する苦悩、そしてその傷を癒そうとする力を体験することに他ならないと思います。
真珠は、真珠は、何らかの異物(苦悩、傷)が、貝自身の外套膜(癒そうとする力、治ろうとする力、生命力)を引きずって貝の中に入ってくることで生まれます。
つまり、真珠的な体験は、徹底的に受け身の状態、無力な状態、自力の働かない状態であることが条件になって、そこから偶発的にもたらされる神秘的な力を受け取るということそのものなのです。
そういう意味では、大乗仏教の他力の思想とも関係してくるように思います。
間違いや罪を犯したり、無力であり不完全であるという体験と、それを癒された(赦された)という体験なくしては、新エルサレム(未来の地球、天国)には入れない。
これが、真珠が新エルサレムの門に使われている理由なのではないでしょうか。
真珠の主成分であるカルシウムは骨を形作っている
ちなみに、人体において真珠と同じ成分であるカルシウムは、主に骨を形作っています。そして、欲望やエゴイズムの担い手になっており、物質としては非常に負担がかかった状態にあるといわれています。
新しい地球を作るために、人類はこのカルシウム(骨)を浄化していくことが必要であるようです。
さて、ここから先はgabrielaの個人的な考えですが、あらゆる骨の中でも特に重要なのが脊椎(背骨)だと思います。
脊椎(背骨)が重要である理由は、それが第一チャクラから第七チャクラまでのすべてをつなぐクンダリーニの通り道だからです。
次回の記事では、このクンダリーニの話を書いていきたいと思います。