私は中学受験に合格し都内の私立の中高一貫の女子校に通っていました。のんびりした公立学校と違い、毎日通学のために電車に乗ることも含め色々慣れない日々が続いていました。
今思うとその頃(12歳~13歳)、夜になると急に部屋のドアが勝手に開いたりして怖い思いをすることがありました。多分、精神的に不安定で疲れていたのだと思います。
でも、本当に恐ろしいことがあったのは、初夏くらいのある夜でした。
「そのこと」があってから、私にとって家というのはもはや安心でも安全な場所でもなく、不気味な空間になってしまいました。「そのこと」は、親にすら言えないことで、誰にも相談できるようなことではなかったからです。
子ども心に、「そのこと」は、多分自分が墓場まで持っていく秘密にすべきことだと感じました。
そして、その晩の後から、自分の部屋のドアに内側からかかるカギ(釘を打ち付けて糸をぐるぐる巻きにする簡易的なものですが)を取り付けるようになりました。そして糸の端を持って寝るようになった。少なくとも、何かが部屋に入ってきたら、ベッドのところに来る前にすぐに起きて逃げられるようにと・・・。
親になんでそんなものを取り付けるの?と聞かれた時も、笑ってごまかすしかなく。
・・・その時から家族に対して心を閉ざし、私は私の身に起きた「そのこと」の意味や、「そのこと」によるショックから私を救ってくれる叡智を探すようになりました。
実は「そのこと」が起きる前までの私はというと・・・小学校の卒業式でのスピーチで「地球を守る人になりたい」と言っちゃうような、セガン・スズキとかグレダさんみたいな少女でした。ネイティブアメリカンの叡智とか、縄文の叡智とか、自然と共存していた時代を懐かしみ、そういう時代の叡智がよみがえればきっと地球は平和になると確信していました。
壊れた地球を救うの!みたいな、映画版ナウシカみたいなことを真剣に考えていた。
でも、「そのこと」に関する深い悩みを解決する方法は、はっきり言ってそういう先住民の叡智みたいなものの中には何一つなかった。
壊れた地球を救う前に、私自身が壊れかけていたから。
・・・絶望しました。
どこに行ったら私は救われるのかと。
・・・幸い、私はキリスト教の学校に通っていて、牧師先生が割と真剣な話をしてくれる環境にあって、ほどなくその答えがある日の宗教の時間の中で与えられることになりました。
その日のお題は、ダビデ王の家系とイエスのつながりでした。
ダビデ王というのは、その血がイエスにも流れ込んでいるユダヤ民族の非常に有名な王です。いわばユダヤ民族にとっては聖なる王でもあります。
しかし、旧約聖書には、この偉大なダビデ王とその子孫たちが、目も当てられないような様々な罪を犯すさま、人の道を踏み外していくさまが、淡々と書かれているのです。
そして、新約聖書では、イエスが、この目も当てられないような罪を犯したダビデ王の子孫たちとつながっているということを示す、イエスの家系(リネージ)を列記する箇所があるのです。
なぜ、このような赤裸々な罪の歴史を持つ旧約聖書の中の登場人物と、イエスが血によってつながっていることが新約聖書に書かれているのか。
ユダヤ民族は血統を重視します。その血統の中にある黒歴史的なもの、恥辱のようなものをあえて書くのはなぜなのか。
・・・牧師先生曰く、それは、イエスという存在が、罪や恥の歴史に続く家系の血につながっているということを明記することで、イエスがキリストとして罪を贖ったということを伝えるためなのだと。
その説教の後で私はダビデ王のことが気になり、彼の子孫たちの色々な罪の歴史を知ろうと聖書を紐解いていきました。
そこで、ある一節を読んで目が釘付けになりました。
しかしアムノンは彼女の言うことを聞こうともせず、タマルよりも強かったので、タマルをはずかしめてこれと共に寝た。それからアムノンは、ひじょうに深くタマルを憎むようになった。彼女を憎む憎しみは、彼女を恋した恋よりも大きかった。
サムエル記下13章
それは、私の身に起きた「そのこと」にかなり近いことが書かれていたのです。
正直言って、小学校のころから縄文とか先住民の叡智好きだった私にとって、キリスト教や一神教というのは常に先住民的な文化を駆逐する悪者でした。
でも、その悪者の人たちが信仰している一神教的な教えの中にある叡智の方が、私の身に起きたことを救ってくれるのではないか。少なくとも、縄文とか先住民の知恵の中に、私の身に起きたことを救ってくれるような方法は残されていなかったけど、ここには(聖書とキリスト教には)、そのヒントがある。
・・・ということで、自分を救ってくれる真の光を求めて真剣にキリスト教を学ぼうと思い、中学1年の夏から近所の教会に通うことを決意します。