この数か月、古今東西のタントラや房中術とかの本、はたまたスピ系の女性性解放とかの本を乱読しまくっています。
そこで私が感じることが一つあります。
それが、この手の本の9割がたが、エデンへ帰ろうとしている退行的な姿勢を持っているということです。
今流行りのレムリアとかもその系譜かなと思います。つまり、
「過去、エデン(完璧な状態)という状態があって、私たちはそこから堕落した。
だけど、もう一度今、エデンへ帰ることができるし、そうあるべきだ」
というような姿勢ですね。
「神々や高次の存在の庇護の元で、特に何も意識しなくても(考えたり努力しなくても)自然に幸せだった、
赤ちゃんみたいな状態に戻りたい」
という、いわば一種の子宮回帰的な幻想なんですね。
おそらくここに、ものすごく大きな罠があるんじゃないかと思います。
現行の聖書は、創世記でのエデンにはじまって、黙示録の新エルサレムで終わります。
このことにとても大きな意味があると私は感じています。
エデン(レムリア)は、幼稚園みたいなものです。
常夏の世界、どこまでものっぺりとしていてだるーい感じの平坦な世界です。
自由意志がないので間違えることもないし、危険なものはあえて取り除かれた状態で、遊んでいただけ。
確かにその時代の人類は清らかだったけれど、自然(宇宙)に従属した機械、あるいは動物と変わらない存在だった。
なので、エデン(レムリア)に帰るということは、幼児に戻る、幼児帰りと何ら変わらないよねと思います。
少なくとも私はエデンには帰りたくないです(笑)
色々な波乱万丈があったあとで生まれてくるといわれている新エルサレムの方が、ずっと魅力的です。
大まかに言って、性エネルギーの取り扱いに関しては、エデンに戻ろうとする道と、新エルサレムに向かって進化しようとする道の2つがあると思います。
そして、前者は、今の時代にはブラックマジックにつながっています。
なぜなら、シュタイナーの言葉を借りるなら、「時と場所を間違えた善が悪である」からです。
エデンに帰ることは、かつての善を時と時代を間違えた現代によみがえらせようとする大きな悪ではないかと感じています。
もし現代において、エデン的な行動をとるなら、それはクンダリーニではなくクンダバッファー(性エネルギーの動物的な肉欲への退行)を呼び覚ましてしまうものになるのだろうと感じています。
このトラップは、そこかしこに埋め込まれていると思います。